AI創薬と漢方の「証」——個別最適化の二つの系譜

シリーズ:世界と日本 Vol.3 #09 公開日:2026年5月25日 読了時間:18分 カテゴリ:医療・科学技術/東洋医学


はじめに——「同じ病気でも、人が違えば薬が違う」

近代医学が確立して以来、医療は「同じ病気には同じ薬を」という原則のもとに発展してきた。診断名がつけば標準治療があり、エビデンスに基づくガイドラインが処方を導く。この体系は感染症を制圧し、平均寿命を倍に伸ばした人類史上もっとも成功した知のシステムである。

しかしいま、その前提が静かに揺らいでいる。

2026年、AI 創薬の最前線では「同じ病名でも、患者ごとに分子設計を変える」というアプローチが現実のものになり始めた。Insilico Medicine の TNIK 阻害剤は、特発性肺線維症のなかでも特定の分子経路を持つ患者群を狙い撃ちにする。Recursion Pharmaceuticals は家族性大腸腺腫症の患者の細胞表現型を AI で解析し、個別の応答を予測する。Isomorphic Labs の創薬エンジン IsoDDE は、AlphaFold 3 を基盤に、患者固有のタンパク質構造に最適化された分子を設計する。「プレシジョン・メディシン」と呼ばれるこの潮流は、医療を「集団に対する標準処方」から「個人に対する固有処方」へと書き換えつつある。

ところが——この「個別最適化」という発想、日本の医療には2000年来の伝統がある。

漢方医学の「証(しょう)」がそれである。同じ風邪でも、体力のある人と弱い人では処方が変わる。同じ頭痛でも、冷えからくるものと熱からくるものでは生薬が違う。「同病異治」「異病同治」——病名ではなく、その人の身体の状態(証)を診て薬を決めるという発想は、AI 創薬が今ようやく到達しつつある地点を、数千年前から実践してきた知のシステムである。

シリコンバレーの最先端と、京都・富山の老舗薬舗。両者は対極に見えて、実は同じ問いを抱えている。「人間の身体は、どこまで個別で、どこまで普遍か」。本稿では AI 創薬の最新動向を整理したうえで、漢方の「証」という補助線を通じて、個別最適化医療の未来を読み解く。


第一部 グローバル動向——AI 創薬、臨床で結果を出し始めた

三つの旗手と、それぞれの戦略

2026年5月時点で、AI 創薬は「PoC(概念実証)の時代」を完全に脱し、「臨床アウトカムで勝負する時代」に突入している。象徴的なのが三社の動向である。

Insilico Medicine(香港・米国)は、2025年末に香港証券取引所に上場を果たした。同社の生成AI 創薬プラットフォーム「Pharma.AI」は、すでに10件のプログラムを臨床試験に進めており、多国籍製薬企業との提携総額は46億ドルに達する。特筆すべきは、特発性肺線維症(IPF)を対象とした TNIK 阻害剤「Rentosertib(ISM001-055)」の第2a相試験で、安全性に加えて肺機能の用量依存的な改善を確認したことである。AI が発見した薬剤として初の臨床的プルーフ・オブ・コンセプトとされ、業界の潮目を変える成果と評価された。

Recursion Pharmaceuticals(米国)は、AI と自動化された実験室を組み合わせた「Recursion OS」を擁する。彼らのアプローチはユニークで、分子設計から入るのではなく、細胞の写真を撮り、その表現型(フェノタイプ)の変化を画像認識AIで解析する「フェノミクス」を出発点とする。2026年2月、家族性大腸腺腫症(FAP)を対象とした MEK1/2 阻害剤「REC-4881」の第2相試験で、評価可能患者の75%でポリープ総量の減少を確認した。Sanofi との提携では免疫学・腫瘍学領域で5つのプログラムが進行中で、これまでに1億3400万ドルのマイルストーン支払いを受け取っている。

Isomorphic Labs(英国・Google DeepMind傘下)は、AlphaFold 3 を基盤とした創薬エンジン「IsoDDE」を開発。2026年2月の発表によれば、IsoDDE は AlphaFold 3 と比較して未知のタンパク質・リガンド構造予測の精度を2倍以上に向上させ、物理ベースの手法を凌駕する結合親和性予測を実現した。Novartis、Eli Lilly との提携を進め、2025年中に AI 設計の薬剤として初の臨床試験を開始する準備に入っている。

創薬の時間軸が、変わりつつある

伝統的に新薬開発には平均10〜15年、開発コストは10〜20億ドルが必要とされてきた。AI 創薬の登場は、この時間軸とコスト構造を根本から書き換えつつある。Insilico Medicine の主張によれば、Rentosertib はターゲット発見から第1相試験開始まで、わずか30ヶ月で到達した。これは従来の3分の1から4分の1の時間である。

ただし、ここで注意が必要だ。AI が短縮できるのは主に「前臨床」段階——ターゲット同定、リード化合物の最適化、毒性予測——であり、実際の臨床試験そのものの期間や成功確率を直接短縮するわけではない。臨床第2相から第3相での失敗率は依然として高く、AI 創薬企業の多くも例外ではない。Recursion は2024年に複数のプログラムを中止しており、AI が「魔法の杖」ではないことが業界の共通認識となりつつある。

それでも、創薬の「打席数」は確実に増えた。これまで人間の研究者が一年に数本しかターゲットを評価できなかったのに対し、AI は数万のターゲット候補を並列にスクリーニングできる。希少疾患や長寿関連疾患のように、市場規模が小さく従来の経済合理性では取り組めなかった領域にも、AI 創薬は手を伸ばし始めている。

「個別最適化」というキーワード

AI 創薬の本質的な革新は、速度やコストではなく「個別最適化」の解像度が上がったことにある。ゲノム情報、プロテオーム、メタボロームといった「マルチオミクス」データを統合し、患者の細胞や組織の状態を分子レベルで再現する「デジタルツイン」が現実味を帯びている。Recursion OS が試みているのは、まさにこの方向である。患者ごとに細胞の振る舞いをシミュレートし、最適な分子を選ぶ。

製薬大手も追随している。Novartis、Pfizer、Eli Lilly、Sanofi はいずれも AI 創薬スタートアップとの大型提携を進め、自社内でも AI 研究組織を拡大している。「ブロックバスター(年商10億ドル超の万能薬)」を量産するモデルから、「特定の遺伝子変異を持つサブグループに対する精密医療」へと、産業構造そのものがシフトしつつある。


第二部 日本——「証」という、もうひとつの個別最適化

漢方医学が2000年かけて磨いてきたもの

ここで日本に視線を移したい。日本の医療現場には、AI 創薬が今ようやく到達しつつある「個別最適化」を、2000年以上にわたって実践してきた体系がある。それが漢方医学であり、その核心にあるのが「証(しょう)」の概念である。

漢方医学は、中国医学を起源としながら、日本で独自の発展を遂げた。江戸時代には「古方派」と「後世派」が論争を繰り広げ、明治の西洋医学導入後も民間に深く根を張り続け、戦後は148処方が健康保険適用となって現代医療に組み込まれた。2025年の調査によれば、日常診療で漢方薬を活用している医師は約86.7%に達する。これは世界的にも稀有な、伝統医療と近代医療が共存する医療体系である。

「証」とは何か。それは「いま、この患者が示している身体の状態の総合的な指標」である。患者の主観的訴え(自覚症状)、客観的所見(脈、舌、腹部の触診)、体質、生活環境などを統合して、医師が判断する。具体的には次のような軸で評価される。

  • 陰陽(いんよう):寒がりで活動が低下した「陰証」か、暑がりで活動的な「陽証」か
  • 虚実(きょじつ):体力が弱く抵抗力の低い「虚証」か、体力が充実した「実証」か
  • 寒熱(かんねつ):症状が冷えに由来する「寒証」か、熱に由来する「熱証」か
  • 気血水(きけつすい):生命エネルギー(気)、血液(血)、体液(水)のバランス

これらを組み合わせ、患者の現時点での身体状態を立体的に把握する。同じ「風邪」でも、体力のある実証の人には葛根湯、虚証の人には桂枝湯、すでに熱が高ければ麻黄湯、回復期で胃腸が弱っていれば小柴胡湯、と処方が分かれる。診断は病名ではなく、証で行うのである。

「同病異治」「異病同治」——病名を超える発想

この「証」の体系がもたらすのが、漢方医学を特徴づける二つの原則である。

同病異治——同じ病気でも証が違えば、異なる漢方薬を処方する。 異病同治——異なる病気でも証が同じであれば、同じ漢方薬を処方する。

たとえば、漢方薬「補中益気湯」は、「気虚」という証(生命エネルギーの低下)を持つ患者に処方される。その症状は、慢性疲労、食欲不振、術後の体力低下、がんサポーティブケア、夏バテ、自律神経失調症など、西洋医学的にはまったく異なる病名にまたがる。しかし、漢方医からみれば、それらはすべて「気虚」という同じ証の異なる現れ方なのである。

この発想は、西洋医学の「疾患中心モデル」とは根本的に異なる。西洋医学は身体を臓器・組織・細胞・分子のレベルに分解し、どこに病変があるかを特定して、そこに作用する薬を投与する。一方、漢方医学は身体を「気血水のネットワーク」「五臓六腑のバランス」として捉え、その全体の歪みを調整しようとする。要素還元主義に対する、システム生物学的アプローチ。

多成分・多ターゲットという設計思想

もう一つ重要な特徴がある。漢方薬は「多成分・多ターゲット」を設計原理とする点だ。

たとえば「補中益気湯」は10種類の生薬から構成される。黄耆、人参、白朮、当帰、陳皮、大棗、柴胡、甘草、生姜、升麻。それぞれの生薬は数十から数百の成分を含み、漢方薬全体としては数百から千を超える化学成分が一剤に含まれる。これらが複数の生体経路に同時に作用することで、「全体のバランスを整える」効果を生む。

漢方処方には「君臣佐使(くんしんさし)」という配合原則がある。

  • 君薬:主作用を担う中心生薬(補中益気湯では黄耆)
  • 臣薬:君薬を補佐する(人参、白朮)
  • 佐薬:副作用を抑え、特定の症状に対応(柴胡、当帰など)
  • 使薬:薬効を目的部位に届け、全体を調和させる(甘草、生姜)

これは現代の AI 創薬が「複数の生体経路を同時に調節する分子カクテル」を設計しようとしている発想と、驚くほど似ている。複雑な疾患——がん、認知症、自己免疫疾患、老化——に対しては、単一のターゲットを叩く「ハンマー型」より、複数の経路を緩やかに調節する「ネットワーク型」の介入が必要だという認識が、AI 創薬の最先端でも共有されつつある。漢方は経験的に、AI 創薬は計算によって、同じ結論に辿り着こうとしている。

現代日本における漢方の位置

日本の漢方医療は、世界でも独特の位置を占める。中国では中医薬と西洋医学が制度的に分離しているのに対し、日本では同じ医師が西洋医学と漢方を併用する。148処方が健康保険適用となり、エキス顆粒の形で簡便に処方できる。富山大学和漢医薬学総合研究所、東京大学医学部漢方医学講座、慶應義塾大学医学部漢方医学センターなど、主要大学に研究拠点がある。

しかし課題も大きい。

第一に、エビデンス不足。漢方薬は多成分系であり、ランダム化比較試験(RCT)の設計が難しい。プラセボの作成困難、患者の証ごとに割り付けする手間、長期投与の評価など、近代医学的なエビデンス構築の手法と相性が悪い。「効くらしい」という臨床的実感はあっても、「なぜ効くか」「どの成分がどう作用するか」の解明は途上にある。

第二に、「証」を考慮しない処方の蔓延。日常診療で漢方を使う医師の約半数が、患者の証を診ずに「病名投与」(西洋医学的診断のみで処方)を行っているという実態がある。「便秘なら大黄甘草湯」「高齢者の認知症なら抑肝散」と、マニュアル的な使い方が広がる一方、本来の「証に随う治療(随証治療)」の伝統は痩せ細っている。

第三に、原料生薬の供給リスク。日本で使われる生薬の8割以上が中国からの輸入である。気候変動、政治的緊張、需要拡大による価格高騰など、サプライチェーンの脆弱性が顕在化している。北海道や奈良で薬用植物の国内栽培を進める動きはあるが、規模はまだ小さい。

第四に、後継者不足。漢方医学は徒弟制的な要素が強く、四診(望診・聞診・問診・切診)を含む診察技術の習得には時間がかかる。AI による診断支援(舌診カメラ、脈診センサーなど)の研究は進むが、ベテラン漢方医の臨床勘を再現するには至っていない。


第三部 シナリオ——AIと漢方の交差路

シナリオA:楽観——「デジタル証」による超・個別化医療

最も希望的なシナリオは、AI 創薬と漢方医学が融合し、世界に類を見ない「超・個別化医療」が日本から立ち上がる未来である。

具体的には、AI を用いて漢方薬の多成分系の作用機序が「ネットワーク薬理学」として解明される。補中益気湯の10種類の生薬、数百の成分、それらが作用する数千の標的タンパク質——これらの相互作用ネットワークが AlphaFold 3 や IsoDDE のような分子モデリングで可視化される。富山大学や慶應義塾大学などの研究機関が長年蓄積してきた和漢薬のデータと、AI 創薬企業の計算リソースが結びつく。

さらに、患者のゲノム、プロテオーム、メタボロームに加えて、ウェアラブルデバイスから得られる生体データ(心拍変動、睡眠、活動量)、そして伝統的な「四診」のデジタル化データ(舌診カメラ、脈診センサー、AI 問診)が統合される。AI はこれらを総合的に解析し、その人の「デジタル証」を判定する。陰陽虚実、気血水のバランスが数値化され、それに最適な処方が——既存の漢方薬から、あるいは AI が新規設計した「デジタル和漢薬」から——選ばれる。

このシナリオが成立すれば、日本は世界に対して独自の貢献ができる。プレシジョン・メディシンの欧米モデルは個別の遺伝子変異を狙うが、日本モデルは「個別の体質バランス」を狙う。前者は希少疾患やがんで威力を発揮し、後者は慢性疾患、未病、加齢関連症状で威力を発揮する。両者は競合ではなく補完関係にある。

実現には、ツムラ、クラシエ、小太郎漢方など漢方製薬企業の積極的な投資と、製薬・テック企業との越境提携が必要だ。経済産業省と厚生労働省の連携、規制改革(漢方薬のエビデンス構築を促す新しい臨床試験デザインの認可)、医学教育における漢方カリキュラムの強化も欠かせない。

シナリオB:中庸——役割分担の明確化と AI による効率化

中庸シナリオでは、AI 創薬と漢方が融合するのではなく、それぞれの役割が明確化される形で並走する。

AI 創薬は引き続き「西洋医学的アプローチ」の延長として、がん、希少疾患、自己免疫疾患など、特異的なターゲットを叩く新薬開発で成果を上げる。Insilico、Recursion、Isomorphic Labs、それらに連なる日本のスタートアップ(Preferred Networks、Elix、MOLCURE など)が、世界市場で競争する。

一方、漢方薬は「全身のバランス調整」「未病」「サポーティブケア」「高齢者医療」の領域で、その地位を確固たるものにする。AI による診断支援ツール——舌診カメラアプリ、脈診ウェアラブル、AI 問診チャットボット——が普及し、一般医でも適切な漢方処方ができるようになる。「証」の判定がデジタル化され、漢方医療の標準化と裾野拡大が進む。

このシナリオでは、両者の境界線は明確に保たれる。AI 創薬は特定疾患の精密治療を、漢方は体質改善とサポーティブケアを担う。患者からみれば、状況に応じて両者を使い分けることになる。がん治療では AI 設計薬を、その副作用軽減には漢方を。糖尿病では生活習慣管理と AI 創薬を、冷え性や不定愁訴には漢方を。

実現可能性は高い。すでに日本の医療現場では西洋医学と漢方の併用が一般化しており、AI 診断支援ツールの研究も進んでいる。経済的にも、製薬市場とサプリ・OTC市場の双方で漢方関連の伸びしろは大きい。リスクは、両者が分離したまま「融合」の機会を逃すこと——日本独自の貢献が生まれず、欧米の AI 創薬モデルに従属し、漢方は国内市場に閉じ込められる可能性がある。

シナリオC:悲観——AI のブラックボックス化と漢方の形骸化

最も警戒すべきシナリオは、AI 創薬と漢方医学の双方が、それぞれの危機を深める未来である。

AI 創薬は確かに新薬を生み出すが、その推論プロセスがブラックボックス化する。「なぜこの分子がこの患者に効くのか」を医師が説明できなくなり、臨床現場での受容が進まない。さらに、AI が学習したデータの偏り(欧米人の遺伝子データが中心)により、アジア人や日本人の体質に最適化されていない治療が標準化される懸念がある。

一方、漢方医学では、AI による「病名投与」型の処方提案がさらに広がる。「不眠なら酸棗仁湯」「便秘なら大黄甘草湯」と、患者の証を診ずに薬剤を選ぶ運用が一般化し、本来の「随証治療」が完全に失われる。四診の伝統技術は受け継がれず、漢方医学は単なる「東洋風の対症療法」に成り下がる。

さらに悪いシナリオでは、生薬の供給危機が深刻化する。中国の経済情勢や気候変動により、輸入価格が高騰し、保険適用外の生薬が増える。漢方医療は富裕層向けの自費診療に偏り、保険医療としての底力が失われる。同時に、AI 創薬で生まれた高額な精密医療薬も、すべての患者には届かず、医療格差が拡大する。

このシナリオを避けるには、AI の説明可能性(XAI)の研究、生薬の国内栽培推進、漢方医学教育の継承、そして何より「個別化医療は両方のアプローチが必要だ」という社会的コンセンサスの形成が必要である。


ARBO の見解——「医療の哲学」が問われる時代

AI 創薬と漢方医学の交差路に立って見えてくるのは、「医療とは何か」という、根源的な問いである。

近代医学は、身体を分解可能な機械として扱った。臓器、組織、細胞、分子。問題のある部品を特定し、修理する。この発想が抗生物質を生み、ワクチンを生み、外科手術を進化させた。20世紀の医療の勝利の源泉である。

しかし21世紀に入り、複雑性の高い疾患——がん、認知症、自己免疫疾患、老化そのもの——への取り組みが進むなかで、「機械論的身体観」の限界が見えてきた。これらの疾患は、単一の原因や単一の経路で説明できない。複数の遺伝子、複数の細胞種、複数の環境要因が絡み合った「システムの病」である。

AI 創薬が示しているのは、こうしたシステムの病に対しては、システム的なアプローチが必要だという認識である。患者ごとに遺伝子、細胞、組織のネットワーク全体を解析し、それに合わせた介入を行う。これは要素還元主義ではなく、システム生物学の発想だ。

そして漢方医学は——驚くべきことに——同じ発想を2000年前から実践してきた。気血水のネットワーク、五臓六腑の相互関係、証という総合判断。決して非科学的なのではない。むしろ、近代医学が捨て去ろうとして捨てきれなかった「身体は全体として動く」という認識を、体系として保ち続けてきたのである。

ARBO はここに、日本固有の貢献の可能性を見る。

AI 創薬の最先端を担うのは、おそらく今後も欧米企業だろう。計算リソース、研究者の層、資金調達力、いずれも日本が直ちに追いつける領域ではない。だが、**「身体をシステムとして見る思想」**については、日本には他国にない蓄積がある。漢方医学、東洋医学、養生思想、食養生、湯治文化——これらすべてが「全体性の身体観」を保ち続けてきた。

問われているのは、この思想を 21世紀の言語で語り直し、AI と接続させる作業である。富山大学の和漢医薬学、京都大学の iPS 研究、慶應義塾大学のシステム医学、それらが連携し、漢方の「証」を AI が読み解ける形に翻訳する。世界に対して「日本の医療哲学」として発信する。

これは単なる伝統文化の輸出ではない。AI 時代の医療における、もう一つの正統的アプローチの提示である。プレシジョン・メディシンが「分子レベルの個別化」を追求するなら、日本の貢献は「システムレベルの個別化」を担うことだ。両者が補完し合うとき、医療は次のフェーズに入る。

ただし、これには大きな前提がある。漢方医学自身が、AI と対話できる形に自らを更新できるかどうか。エビデンスを構築し、診断技術をデジタル化し、若手医師を育て、生薬の安定供給を確保する。これらの地道な作業を、漢方界が自らの手で進めなければ、AI の波に呑まれて消える運命にある。

「もう一つの個別化医療」が世界遺産になるか、博物館の展示になるか。今後10年が分かれ目だろう。


注視ポイント——今後1〜3年で見るべき三つの動き

第一に、日本の漢方研究機関と AI 創薬企業の提携を注視したい。富山大学和漢医薬学総合研究所、東京大学、慶應義塾大学などが持つ漢方の知見と、Preferred Networks、Elix、Insilico Medicine などの計算リソースが結びつくか。ツムラやクラシエが、自社の生薬データベースを AI 解析に開放するか。象徴的な共同研究が始まれば、「デジタル和漢」の流れが本格化する。

第二に、保険適用の枠組み変更である。現在の漢方薬の保険適用は、1976年の「一般用漢方処方の手引き」に基づく148処方が中心である。AI を活用した新規の漢方処方や、患者ごとにカスタマイズした生薬配合に対して、保険がどう対応するか。厚生労働省、中央社会保険医療協議会、製薬業界の動きが、この分野の未来を大きく左右する。

第三に、医学教育の変化である。現在、医学部のカリキュラムでは漢方医学の必修化が進みつつあるが、教育時間は限られ、四診や随証治療の本格的な訓練までは至っていない。一方、AI リテラシーや計算医学の教育も求められる。「AI を使いこなし、かつ漢方を理解する医師」をどう育てるか。慶應義塾大学医学部、京都大学医学部、自治医科大学などの先進的取り組みが、次世代の標準となるかどうかを見守りたい。


参考資料

[1] Insilico Medicine. Insilico Medicine Announces 2025 Annual Results, Redefining Value Delivery in AI-Powered Drug Discovery. 2026. [2] Recursion Pharmaceuticals. Recursion Reports Fourth Quarter and Full Year 2025 Financial Results. 2026. [3] Isomorphic Labs. The Isomorphic Labs Drug Design Engine unlocks a new frontier beyond AlphaFold. 2026. [4] Clinical Trials Arena. Isomorphic Labs prepares to launch trials for AI-designed drugs. 2025. [5] 慈椿堂薬局. 漢方とは何か?体調不良の解釈と現代医療での活用法. 2026. [6] ヘルシスト. 特集 現代の「東洋医学」 集まる「エビデンス」 —— 重要性を増す漢方薬の役割. 2025. [7] 大峰堂薬品工業. 漢方でよく聞く「証(しょう)」とは?自分の体質に合う漢方薬の見つけ方. 2025. [8] 富山大学和漢医薬学総合研究所. 和漢薬研究の現状と展望. 2025. [9] 日本東洋医学会. 漢方医学テキスト 改訂第三版. 南江堂, 2024.


著者:ARBO 編集部 シリーズ:世界と日本 Vol.3 #09/全10回 次回:作者なきソフトウェア——ノーコード生成と民藝、用の美の再来