旗振り通信——米相場を「光速」で運んだ、江戸の高速通信網
カテゴリー:日本のルーツ

ARBO Editorial · 関連記事 #065 — Vol5-03「アルゴリズム取引 × 堂島米会所」補助線 現代の株式市場では、取引所のすぐ隣にサーバーを置き、光ケーブルの長さを1メートルでも短くして、ミリ秒以下の速さで注文を出す。低レイテンシ(低遅延)をめぐる争いだ。だが「相場の情報を、誰よりも速く運ぶ」という競争は、江戸時代の日本にすでに存在した。山の頂から頂へ、旗を振って米相場を伝えた「旗振り通信」である。 江戸時代中期、全国の米価の基準は大坂・堂島の米相場だった。各地の商人にとって、堂島の値がいくらかは死活問題である。少しでも早くその数字を知れば、地元での売買で利益を得られる。逆に地方の相場を大坂へ伝えることにも価値があった。この需要に応えて考案されたのが、旗振り通信だった。 従来、米相場の伝達には飛脚(米飛脚)や狼煙(のろし)が使われていた。しかし飛脚は速くても人の足、狼煙は内容を細かく伝えられない。そこで、見晴らしのよい山の頂に「旗振り場」を設け、旗の振り方で相場の数字を表し、望遠鏡で次の山がそれを読み取って中継する——という方式が編み出された。山から山へ、リレーのように情報が飛んでいったのである。 その速さは、現代の感覚でも驚異的だ。熟練者は一回の旗振りを約1分でこなし、旗振り場の間隔を3里(約12キロ)とすれば、計算上の通信速度は時速720キロにも達したという。記録によれば、大阪から京都まで約4分、大津まで5分、神戸まで3〜7分、岡山まで15分、広島まで27分で相場が伝わったとされる。 これは、馬や飛脚とは比較にならない速度である。実際、1981年(昭和56年)に大阪・岡山間で行われた再現実験では2時間を要したというから、当時の相場師たちの技能がいかに卓越していたかがうかがえる。彼らは「相場師」「めがね屋」などと呼ばれ、望遠鏡を覗いて旗の動きを瞬時に読み取り、間髪入れず次へ送る専門職だった。 旗の色や大きさにも工夫があった。背後に障害物がある場所では白旗、空を背にする場所では黒旗を使い、視認性を高めた。曇天時には大きな旗に切り替える。情報を確実に、速く届けるための、徹底した最適化がそこにあった。 注目すべきは、この情報インフラが幕府の規制対象になったことだ。江戸幕府は米飛脚を保護するため、摂津・河内・播磨の三国に対して旗振り通信の禁止令を出した。速すぎる情報伝達が、既存の秩序を脅かすと見なされたのである。商人たちは禁止区域を飛脚で迂回し、区域外から旗振りを再開するという抜け道で対応した。 やがて1865年、外国軍艦の来航を旗振りで速報したことをきっかけに禁止令は解かれ、明治期には政府公認の仕事となった。だが1893年に大阪へ電話が開通すると、旗振り通信は急速に役目を終え、1918年(大正7年)に完全に姿を消した。情報インフラの覇権が、人の技能から電気通信へと移った瞬間だった。 「相場情報を、誰よりも速く手に入れた者が勝つ」——この構造は、現代の高頻度取引(HFT)とまったく同じである。取引所の近くにサーバーを置き、通信経路を最短化し、マイクロ秒を削り合う現代のトレーダーたちは、山の頂で旗を振った相場師の正統な後継者だ。 そして、旗振り通信が幕府の規制対象になったことも示唆的である。速すぎる情報伝達が市場の公平性を揺るがすという懸念は、現代のHFT規制論とも響き合う。情報の速度をめぐる競争と、その速度をどこまで認めるかという規制——この古くて新しい論点を、旗振り通信は二百年前に先取りしていた。山の頂で振られた一本の旗は、いまも光ファイバーの中を走り続けているのである。 速度の格差:情報を速く得る者と遅れる者の格差は、旗振りの時代もHFTの時代も変わらない。公平性をどう設計するか。 規制と抜け道:旗振り禁止令を飛脚で迂回したように、速度規制には常に技術的な抜け道が生まれる。 インフラの転換:人の技能→電話→光通信と、相場インフラは更新され続ける。次の覇権は何が握るか。 ARBO Editorial · 2026年6月 · 関連記事 #065 — Vol5-03「アルゴリズム取引 × 堂島米会所」補助線