味の素——池田菊苗と「うま味」の発見

2024年度(2025年3月期)、味の素グループの売上高は1兆5,305億円に達した。調味料・食品事業に加え、アミノ酸技術を応用した電子材料「味の素ビルドアップフィルム(ABF)」が世界の半導体パッケージ基板の約90%に使用されるなど、「食と健康の会社」から「アミノサイエンスのグローバル企業」へと進化を遂げている。

しかし味の素の原点は、1908年に東京帝国大学教授・池田菊苗(いけだ・きくなえ、1864–1936)が昆布だしの中から発見した1つの物質——グルタミン酸ナトリウム——にある。「うま味」という概念そのものを科学的に証明し、それを工業化した日本発のイノベーションが、世界の食文化を変えた物語である。

池田菊苗——「第五の味」を発見した化学者

湯豆腐の1杯から始まった発見

1907年のある夕食の席で、池田菊苗は妻が作った湯豆腐の昆布だしを口にし、ふと考えた。「この味は甘味でも酸味でも塩味でも苦味でもない。これは何だ?」

当時、西洋の味覚理論では基本味は「甘味・酸味・塩味・苦味」の4つとされていた。しかし池田は、日本の出汁(だし)に含まれる独特の味わいが、この4つのいずれにも分類できないことに気づいた。池田はこの味を「うま味」と名付け、その正体を科学的に解明する研究に着手する。

池田はドイツ・ライプツィヒ大学への留学経験を持つ物理化学者だった。留学中にドイツの食事を体験し、「西洋の食事は栄養価は高いが、日本の出汁のような深い味わいがない」と感じていた。この体験が、「うま味」の科学的解明への動機となった。

121212kgの昆布から30グラムの結晶へ

1908年、池田は大量の昆布(約12kg)を煮出し、そこから化学的に成分を分離・精製する実験を繰り返した。数ヶ月の研究の末、ついに昆布だしのうま味の正体が「グルタミン酸」であることを突き止める。さらに、グルタミン酸のナトリウム塩(グルタミン酸ナトリウム)が最も安定的にうま味を呈することを発見した。

1908年4月、池田は「グルタミン酸塩を主成分とする調味料製造法」の特許を出願する。科学者が自ら特許を取得し、工業化を目指すという姿勢は、当時の日本のアカデミアでは異例だった。池田は「学問は社会に役立ってこそ意味がある」と考えていた。

鈴木三郎助——科学を商品に変えた実業家

池田の発見を商品化したのが、実業家・鈴木三郎助(すずき・さぶろうすけ、1868–1931)である。鈴木はもともと神奈川県でヨード(ヨウ素)の製造を手がけていた。海藻からヨードを抽出する技術を持っていたため、昆布からグルタミン酸を抽出する池田の研究に技術的な親和性があった。

1909年5月、鈴木は池田の特許を実施し、世界初のうま味調味料「味の素」を発売する。「味の素」という商品名は、「味の素(もと)」——すべての味の基本となるもの——という意味を込めて名付けられた。

発売当初、「味の素」は高価な調味料だった。しかし鈴木は、小さな瓶に入れて一般家庭でも手が届く価格帯を設定し、新聞広告や実演販売で認知を広げた。「ひと振りで料理がおいしくなる」という簡便さが主婦層に支持され、大正期には日本の家庭に広く普及した。

グローバル展開——アジアから世界へ

味の素のグローバル展開は、創業初期から始まっている。1917年にはニューヨークに事務所を開設し、1920年代には中国・東南アジアへの輸出を本格化した。特にタイ、インドネシア、フィリピンなど東南アジア諸国では、現地の食文化に深く根付き、「AJINOMOTO」は調味料の代名詞となっている。

現在、味の素グループは世界36カ国・地域に拠点を持ち、130カ国以上で製品を販売している。売上収益の約60%が海外事業であり、特にアジア・南米での成長が著しい。各国の食文化に合わせた現地生産・現地開発を徹底し、「グローバルだがローカル」な事業展開を実現している。

ABF——半導体を支える「味の素」の技術

味の素の現代における最大の驚きは、半導体産業への貢献だろう。「味の素ビルドアップフィルム(ABF)」は、半導体パッケージ基板の絶縁材料として、世界シェア約90%を占める。Intel Corporation、Advanced Micro Devices, Inc.(AMD)、NVIDIA Corporationなど世界の主要半導体メーカーのチップに、味の素の素材が使われているのだ。

ABFの開発は、アミノ酸の製造過程で培ったエポキシ樹脂技術の応用から始まった。1996年に開発されたこの素材は、従来のガラスクロス基材に比べて薄く、高周波特性に優れ、微細配線に対応できる。AI半導体の高性能化に伴い、ABFの需要は急拡大している。

「食品メーカーがなぜ半導体材料を?」——この問いに対する答えは、味の素の企業DNAにある。池田菊苗が昆布からグルタミン酸を抽出したように、味の素は一貫して「アミノ酸の可能性を広げる」ことを追求してきた。食品から医薬品、電子材料まで——アミノ酸という1つの軸で、まったく異なる産業をつないでいるのだ。

「うま味」が世界の共通語になるまで

池田菊苗が1908年に提唱した「うま味」は、長らく西洋の科学界では認められなかった。「甘味・酸味・塩味・苦味」の4基本味で十分であり、「うま味」は独立した味覚ではないとされていた。

転機は2000年代に訪れる。2002年、カリフォルニア大学サンディエゴ校のチャールズ・ズーカーらが、舌の味蕾にグルタミン酸を特異的に感知する受容体(T1R1/T1R3)を発見した。これにより「うま味」は科学的に第五の基本味として認定され、英語でも「Umami」としてそのまま使われるようになった。

現在、「Umami」は世界の料理界で最も注目されるコンセプトの1つだ。ミシュラン星付きレストランのシェフたちが「Umami」を語り、パルメザンチーズ、トマト、熟成肉など西洋食材にもグルタミン酸が豊富に含まれることが広く知られるようになった。

池田菊苗の発見から116年。「うま味」は日本語のまま世界共通語となり、味の素グループは食・健康・電子材料の3領域で1.5兆円企業に成長した。1杯の湯豆腐から始まった「なぜ?」が、世界の食文化と半導体産業を変えたのである。