ベルヌ条約加盟と版権条例——国際基準に合わせるとは、値切ることでもあった

AIの学習データ規制をめぐって、各国はいま国際基準の綱引きをしている。EUが厳しい開示義務を課せば、他国もそれに合わせるか、合わせない理由を説明しなければならなくなる。実は日本は、この綱引きをすでに一度経験している。相手はベルヌ条約——1886年9月9日にスイスのベルンで締結された、外国の著作物を互いに守る国際的な取り決めだった。加盟の条件は、国内の出版業がそれまで積み上げてきたやり方を、一年足らずで作り替えることだった。

なぜ十二年で法律を三回も作り直したのか

1887年、日本にはまだ「版権法」と称する一本の法律が無かった。出版条例から版権保護の部分を切り離した版権条例、それとは別に脚本楽譜条例、写真版権条例。ジャンルごとに条文が分かれ、それぞれ別の物差しで著作物を測っていた。版権条例は第7条で版権を著作者に属するものと定め、第8条で版権の売渡・譲渡を認め、内務省への登録を権利発生の要件とした。1893年にはこれをまとめる版権法(明治26年法律第16号)が公布される。ところがその6年後、1899年には著作権法(明治32年法律第39号)が制定され、版権条例・脚本楽譜条例・写真版権条例のすべてが一本の法律に統合された。

十二年で三度も枠組みを変えたことになる。国内の出版業にせっつかれたわけではない。急がされたのは、外交の都合だった。

加盟の一ヶ月半前に、法律だけ先に用意した

日本がベルヌ条約に加盟したのは1899年4月18日、国内での施行は同年7月15日である。ところが著作権法の公布は同年3月3日——「朕帝国議会ノ協賛ヲ経タル著作権法ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム」の一文とともに、天皇の裁可を経て世に出た。加盟の一ヶ月半も前に、条約に合わせた法律だけを先に用意していたことになる。

なぜこれほど急いだのか。ベルヌ条約への加盟は、幕末から続く不平等条約の改正交渉における取引材料になっていたからだ。西洋諸国は、著作権を守らない国とは対等な条約を結びたがらなかった。日本にとって版権制度の整備は、国内出版業の要望よりも、国家として一人前と認めてもらうための入場券だった。

著作権法の第1条は、著作権を複製権として定義し、そこに翻訳権を含めることを明記した。これは大きな変化だった。それまで曖昧だった「他人の作品を訳す権利は誰のものか」という問いに、初めて法律が線を引いたのである。

五十年ではなく三十年——値切られた保護期間

もっとも、日本は条約の要求をそのまま丸呑みしたわけではない。ベルヌ条約の原条約は、著作者の死後50年間の保護を原則としていた。ところが著作権法第3条が定めた保護期間は、著作者の生存中と死後30年間にとどまる。世界標準より20年も短い。

国際基準に合わせるといっても、隅々まで従う必要は無く、守るべき最低限だけを飲み、あとは自国に有利な条件を残すという駆け引きの跡が、条文の数字ひとつにそのまま刻まれている。著作権法第1条が複製権に翻訳権を含めたことも、同じ発想の延長線上にあると考えられる。国際基準への適合はいつも全面降伏の形を取るわけではなく、譲る部分と守る部分を選び分けることで、初めて実行可能な制度になる。

現代への接続——国際基準はいつも外側からやってくる

AIの学習データをめぐる規制も、似た構図を持つ。EUが透明性を求めれば、それに合わせない国は市場から締め出されるかもしれない。企業は自社の都合ではなく、外交上・貿易上の要請から制度を作り替えることになる。

明治の著作権法が教えてくれるのは、外側から来た基準でも、丸ごと受け入れる必要は無いという事実だ。保護期間を30年に値切ったように、どこを守り、どこを妥協するかの選択肢は、いつも制度設計の中に残っている。国際基準への適合は、受け身の作業ではなく、交渉の産物なのである。

注視ポイント

AI関連の国際規制が今後2年でどこまで足並みを揃えるか、あるいは各国が独自に条件を値切るかを見ておきたい。日本がEUや米国の基準に合わせる際、明治期と同じように「守る部分」と「譲る部分」をどう選び分けるか。その選択の跡は、いずれ法律の条文の数字ひとつに残るはずである。