日本の製糸業——生糸が紡いだ近代化とトヨタ自働化への系譜

はじめに

群馬県富岡市に、赤煉瓦の長大な建物がある。明治5年(1872年)に操業を開始した官営富岡製糸場——日本最初の本格的な機械製糸工場であり、2014年にユネスコ世界文化遺産に登録された建造物群である。

長さ140メートル、幅12メートルの繰糸所には、フランス製の繰糸機が300台並んでいた。当時最大級のこの工場には、全国から集められた工女たちが、フランス人技師ポール・ブリュナ(Paul Brunat)の指導のもと、近代的な製糸技術を学んだ。彼女たちが故郷に帰り、各地の製糸工場で技術を伝えたことが、その後半世紀の日本の生糸輸出を支える基盤となった。

明治から昭和初期にかけて、生糸は日本の最大の輸出品であり、外貨獲得の主役であった。「生糸が紡いだ近代日本」という表現は、決して誇張ではない。富岡製糸場、片倉組、郡是製糸(後のグンゼ)、鐘淵紡績といった製糸・紡績企業群が、明治政府の殖産興業政策と結びつき、後発工業国・日本を世界の経済秩序のなかに押し上げた。

そして、この製糸業の系譜は、もう一つの重要な流れに合流する。豊田佐吉が織機の研究に取り組み、世界初の自動停止装置を完成させ、その思想が後にトヨタ自動車の中核思想「自働化」となる——この物語は、明治から始まった日本の繊維産業の歴史と切り離して語ることはできない。

本稿では、生糸産業の発展史と労働史、そしてそこから豊田佐吉の自動織機を経てトヨタ自働化に至る系譜を辿り、現代のものづくり・組織運営への示唆を考える(関連記事:トヨタ「自働化」のルーツ——ニンベンと能動主語)。


第1章:横浜開港と生糸——明治日本の外貨獲得装置

日本の生糸産業を理解するには、ペリー来航と幕末の開国から始める必要がある。

開港とともに走り出した生糸輸出

1854年(嘉永7年)の日米和親条約、1858年(安政5年)の日米修好通商条約により、日本は鎖国体制を解いた。1859年(安政6年)に横浜港が開かれると、外国商人が大挙して来日し、彼らが最も求めた商品が、日本の生糸であった。

折しも、ヨーロッパでは1850年代から微粒子病という蚕の伝染病が大流行し、フランス・イタリアの養蚕業が壊滅的な打撃を受けていた。世界の絹織物産業は深刻な原料不足に陥り、その代替供給源として、日本の生糸が一躍注目を浴びた。

開港直後の1860年から、日本の生糸輸出は爆発的に拡大した。1863年には日本の輸出総額の70%以上を生糸が占め、その後も明治期を通じて、生糸は一貫して輸出第一位の地位を保った[^1]。横浜の外国商館街には、日本各地から集められた生糸が積み上げられ、サンフランシスコ・リヨン・ミラノへと船積みされていった。

殖産興業政策と官営富岡製糸場

明治政府は、生糸の重要性を早くから認識していた。1870年(明治3年)、政府は伊藤博文を欧米視察に派遣し、製糸技術の調査を命じた。1872年(明治5年)には、群馬県富岡に官営模範工場「富岡製糸場」を開設した。

工場長代理として招かれたフランス人ポール・ブリュナ(Paul Brunat, 1840-1908)は、フランスの最先端の製糸技術を持ち込み、繰糸機・蒸気機関・建築設計のすべてを指導した。建物は和洋折衷の木骨煉瓦造で、当時の日本にはない大規模建築であった。

工女として全国から集められたのは、士族の子女を含む若い女性たちであった。彼女たちは「伝習工女」と呼ばれ、富岡で最先端の製糸技術を学び、卒業後は故郷の製糸工場で指導者となった。長野県松代藩士の娘・横田英(後の和田英)が記した『富岡日記』は、当時の工女たちの生活と教育の記録として、いまも貴重な資料である[^2]。

民間製糸業の勃興——諏訪・岡谷

富岡製糸場の技術は、民間に急速に拡散した。特に長野県の諏訪・岡谷地方は、信州の冷涼な気候と豊富な水資源を生かして、明治中期以降、日本最大の製糸地帯となった。最盛期の昭和初期には、岡谷一地域だけで年間生糸生産量1万トンを超え、世界市場の約4分の1を供給していた。

岡谷の製糸業の中心となったのが、片倉組(後の片倉工業)と山十組(後の山十製糸)であった。片倉兼太郎(1849-1917)は、長野県川岸村(現岡谷市)の小さな養蚕農家から身を起こし、独自の繰糸機を開発しながら全国に工場を展開、最盛期には片倉組の生糸が日本の輸出量の3割近くを占めるまでに成長した。

群馬県では片倉と並んで碓氷社・甘楽社などの結社製糸が発達し、京都府綾部では波多野鶴吉が郡是製糸(現グンゼ)を設立した。郡是は「一郡は是にあり」を社是とし、地域共同体としての養蚕・製糸を理念に掲げた点で、他社と一線を画す経営思想を持っていた。


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