三菱商事——「三つつぶれる」と言われた賭けと、三綱領の150年
はじめに——資本金を超える450億円、ブルネイへの賭け
1969年12月、三菱商事の社長・藤野忠次郎は、一通の合弁契約書に署名した。相手は石油メジャーのShell(現・Shell plc)とブルネイ政府である。ボルネオ島の小国ブルネイで天然ガスを冷やして液体にし、船で日本へ運ぶ。そのための会社に、Shellと三菱商事が45%ずつ、ブルネイ政府が10%を出すという契約だった。
総額は1億2500万ドル。当時の為替で約450億円にのぼり、三菱商事の資本金をはるかに上回った。同社の社史によれば、社内では「失敗したら三菱商事が三つつぶれる」とまで言われたという。モノを右から左へ動かして手数料を取るのが商社の仕事であり、海外の生産設備に大金を投じる商社はまだほとんどなかった時代である。
3年後の1972年12月、ブルネイからの液化天然ガス(LNG)を積んだ船が大阪に入港した。仲介の会社が、生産設備の持ち主になった瞬間だった。
それから半世紀あまり。2026年7月、三菱商事は米国でシェールガスを掘るAethonの全持分を、約52億ドルで取得し終えた。同社にとって過去最大の買い物である。資源価格の下落で2026年3月期の利益が減り、純利益の首位を伊藤忠商事に譲ったさなかの決断だった。
利益が落ちても、会社の規模を超えかねない賭けに出る。そして、その賭けを縛る言葉を持ち続ける。三菱商事のこの二つの顔は、どこから来たのか。
鍵は二つある。一つは、この会社が三菱の「営業部」から生まれたことだ。もう一つは、生まれて間もない1920年、業績不振のさなかに四代目社長が語った訓示である。それはのちに「三綱領」と呼ばれ、戦後に会社が解体されたときには、散り散りになった社員を呼び戻す旗印になった。
本稿では、営業部の独立から三綱領の誕生、1947年の解散と1954年の大合同、「商社冬の時代」、そして仲介から事業投資への転換までを辿る。すでに取り上げた伊藤忠商事(近江商人の行商)、三井物産(越後屋の呉服商い)とは、出発点がまるで違う。その違いが、いまの決算にも透けて見える。
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