丸紅——「紅忠」ののれんから分かれた、もう一つの忠兵衛の商社

はじめに——○に紅の印は、なぜ「伊藤忠」ではない社名になったのか

1872年(明治5年)、大阪・船場に一軒の呉服太物商が店を開いた。店の名は「紅忠(べんちゅう)」。のれんには、円の中に「紅」の一字を入れた印が付けられていた。店の主は、14年前に近江から麻布を担いで行商に出た初代伊藤忠兵衛である。

この印は、のちに一つの会社の名前になる。丸紅だ。一方で店の主の名は、伊藤忠商事という別の会社の名前として残った。一人の商人の屋号と名前が、二つの総合商社の社名に分かれて生き続けているわけである。

分かれ目は、日付で追うことができる。1918年、伊藤忠合名会社の営業部門は、大陸と綿糸布を取引する伊藤忠商事と、本店の機能を持ち呉服を扱う伊藤忠商店に切り分けられた。戦時に一度は一つの会社へ戻ったものの、1949年、法律にもとづく分割でふたたび別れる。丸紅株式会社が発足したのは、その年の12月1日だった。

初代社長の市川忍は、発足の日の訓示で、まず第一に「正しくあれ」と求めた。だがこの会社はその後、正しさそのものを問われる事件と、支払う力を疑われる危機を、一度ずつくぐり抜けることになる。1976年のロッキード事件と、2001年の経営危機である。

同じ根から出た二つの会社のうち、丸紅を丸紅にしたものは何だったのか。兄の家との合併、東京の貿易会社の取り込み、そして二度の信用の危機。本稿は、その分かれ道を順にたどっていく。

いまの丸紅は、銅山と発電所、農業資材、航空機部品、リースを同じ決算書に並べる総合商社だ。2026年3月期の純利益は5,439億円に達し、168年前の行商は五大商社の一角にまで育った。忠兵衛の生い立ちと近江商人の「三方よし」は伊藤忠商事の回で扱ったので、ここでは分かれた後の丸紅を追う。

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