鳩居堂と業態転換——本業をたたむ前に、売る市場だけを入れ替える
カテゴリー:世界と日本 | シリーズ:先端ビジネスとそのルーツ | 著者:ARBO編集部
はじめに——倉庫も商品も増やさなかった判断
2006年、Amazon.com, Inc.は、自社の通販サイトを動かすために抱え込んでいたサーバーとストレージを、外の会社にも貸し出し始めた。いまやネット通販の最大手として知られるこの会社による、地味な判断だった。新しい倉庫を建てたわけではない。新しい商品を仕入れたわけでもない。すでに持っていた設備の、売り先だけを増やしたのである。
この判断は、のちにAWSという名で知られる巨大事業に育つ。だが最初の一歩は地味だった。社内の電算室を、外に開いただけである。
事業の転換というと、人はつい新しい技術や新しい才能を思い浮かべる。だが実際に起きていることは、もっと地味で、もっと再利用的だ。売り物を替えるとき、会社は何を残せば転換が成り立つのか。この問いを、海を越えた二つの商いから見ていきたい。一つは21世紀のシリコンバレー、もう一つは17世紀の江戸である。
第一部:iPhoneのガラスは、ブラウン管の工場から来た
倉庫を一つも増やさずに、売上は巨大になった
Amazonの話には続きがある。S3というストレージサービスが2006年3月に、EC2という計算サービスが同年8月に始まった。どちらも、自社のECサイトを支えるために内製していた基盤をそのまま社外へ売る仕組みである。このAWS事業は、2022年度に約801億ドル、2023年度には約908億ドルの売上をあげるまでに育った。
ここで新しく発明されたものは、実はほとんど無い。サーバーを動かす技術も、データを守る仕組みも、もとからAmazonの倉庫の裏側にあったものだ。替わったのは、それが誰のために動くかという一点だけである。
ブラウン管のガラス屋が、スマホ部品メーカーになった
似た構造は、素材メーカーのCorning Incorporatedにも見つかる。テレビの主流がブラウン管だった時代、Corningはその画面用ガラスを作る会社だった。ブラウン管が液晶に置き換わっていく中で、この会社は長年培ったガラスの素材科学を、別の製品へ運んでいく。2007年、化学強化ガラス「Gorilla Glass」として、初代iPhone向けに供給を始めたのだ。
ガラスを溶かし、強くし、薄く仕上げる技術そのものは変わっていない。変わったのは、その技術が向かう先がテレビの画面からスマートフォンの画面へ移ったことだけである。

身を切って、残すものを選んだ会社たち
もっと痛みを伴う転換もある。フィンランドの通信機器大手Nokia Corporationは、2013年9月に携帯端末事業をMicrosoft Corporationへ約54.4億ユーロで売却すると発表した。この売却は翌年4月に完了している。かつて世界を席巻した携帯電話そのものを手放し、通信インフラの専業へと絞り込んだのである。さらに2016年1月には通信設備大手Alcatel-Lucentを約156億ユーロで買収し、残した事業の側を厚くしている。
オランダの電機・ヘルスケア大手Koninklijke Philips N.V.も、同じ型の決断をした。2020年10月、家電事業を投資会社Hillhouse Capitalグループへ約37億ユーロで売却すると発表。照明事業Signifyの保有株も2020年までにすべて手放し、会社の軸をヘルステック一本に定めている。
米国の総合電機大手General Electric Companyの分割はさらに大きい。2023年1月にGE HealthCare、2024年4月にGE Vernovaをそれぞれ独立上場させ、残った本体はGE Aerospaceへと改称した。もはや一つの会社では括れない規模の事業を、三つに切り分けたのである。コンピュータ大手IBMも2019年7月にソフトウェア企業Red Hat, Inc.を約340億ドルで買収した。一方で2021年11月には、インフラ受託運用部門をKyndryl Holdings, Inc.として切り離している。買う判断と、手放す判断が同時に進んでいる。
GPS機器メーカーのGarmin Ltd.も、専用機の需要がいずれ消えることを見越し、フィットネス・航空・船舶という高付加価値の市場へ顧客基盤を移していった。位置を測る技術そのものは一つだが、それを誰に売るかが何度も組み替えられている。
第二部:薬を買いに来た客に、香を売る
薬の行商人が、香を運び始めた
1663年、江戸のある店先に、薬の包みが積まれていた。店を開いたのは熊谷直心(くまがいなおしん、1628年〜1704年)。薬種商として商いを始めた人物である。
薬は信用がものを言う商売だ。粗悪な品を売れば、次の客は来ない。熊谷は誠実な取引を重ね、江戸の町に顧客と信用を築いていった。やがてその同じ店先に、香料と書画の筆墨が並ぶようになる。薬を運んでいた流通の道筋、薬屋として積んだ客の信頼——それをそっくりそのまま、別の商品に使い回したのである。鳩居堂の名は、そうして生まれた。
新しい商売を始めるとき、普通は道具も取引先も一から揃える必要がある。だが熊谷にはその手間がなかった。薬を運ぶ荷車も、薬を買ってくれる客も、すでに手元にあったからだ。

一つの店先に、複数の商売を並べる
江戸の城下では、町人人口が増えるにつれて、従来型の商品の需要がどこかで頭打ちになる場面が繰り返し起きていた。そこで多くの商家が取った手は、客を手放さずに、別の商品を出すことだった。香や書画用具は、薬種商の流通網と信頼がそのまま効く分野であり、鳩居堂の転換もこの流れの中にある。
近世の町人商家では、一つの商品カテゴリーに寄りかからないことが、経営のリスクを減らす方法として認識されていたとされる。商家に残る帳簿には、複数の商品を並行して扱った記録が見つかる。多角化が思いつきではなく、ある程度計画された経営の形だったことをうかがわせる痕跡である。
薬を買いに来た客に、香を勧める。書画の道具を欲しがる客に、薬の在庫も見せる。店先という一つの場所に、複数の商売を同居させる発想は、ブラウン管のガラス屋がスマートフォンの部品を作るという発想と、驚くほど近い場所に立っている。
第三部:替えたのは商品ではなく、市場のほうだった
持ち運べるものと、置いていくもの
AWSも鳩居堂も、新しい能力を外から買ってきたわけではない。すでに手元にあるものが、稼ぐ場所を替えただけだ。ここに共通する構造がある。
資産には、持ち運べるものと、置いていかざるを得ないものがある。客の信用、販売網、製造の腕、素材についての知見——これらは市場をまたいでも価値が落ちにくい。一方、製品そのものと、その製品に結びついた世間の記憶は、簡単には運べない。ブラウン管は消えたが、ガラスを扱う技術は消えなかった。薬の行商は縮んでも、客との関係は縮まなかった。
| 世界側(コア資産の転用) | 日本側(鳩居堂) | |
|---|---|---|
| 持ち運んだもの | 素材科学・内製インフラ・顧客基盤 | 流通網と客の信用 |
| 置いていったもの | ブラウン管・携帯端末・家電そのもの | 薬という商品カテゴリー自体ではない |
| 転換の形 | 事業の売却・分離・外部提供 | 同じ店先での商品追加 |
先に動いたか、後から動いたかの分かれ目
分かれ目は、本業が細る前に動けたかどうかにもある。Nokia、Philips、GE、Garminはいずれも、売上がまだ立っている段階で資産の向きを変えた。業績が崩れてから動けば、買い手に足元を見られる。転換には値段がつくからだ。
その逆の例が、写真フィルムの老舗Eastman Kodak Companyである。2020年7月、フィルム向けの化学製造能力をジェネリック医薬品の原薬製造へ転用するとして、最大7億6500万ドルの融資枠を発表した。見立て自体は筋が悪くなかった。化学合成の技術は、確かに写真から医薬品へ運べる資産だ。だが発表のあと、証券取引をめぐる調査が入り、手続きは宙に浮いたまま止まっている。転用は、宣言しただけでは完成しない。
捨てる判断は、買う判断と同じだけ重い
IBMはRed Hatを340億ドルで買う一方で、Kyndrylを手放した。Philipsも家電と照明を同時に外している。何を残すかを決める作業には、何を捨てるかを決める作業がぴったり貼りついている。鳩居堂が薬種商の看板を下ろさずに香と書画を足していったのも、同じ理屈で読める。捨てずに足した例と、足すために大きく捨てた例。どちらも、店先に並ぶ品そのものより、それを支える土台のほうを見ている。
ARBOの見解——問うべきは「何を始めるか」ではない
編集部は、事業転換の核心を新規事業の発見にではなく、資産の棚卸しに見る。問うべきは「何を始めるか」ではない。「いま持っているもののうち、市場をまたいでも価値が落ちないのはどれか」である。
この先の展開には、複数の筋が考えられる。一つは、本業が縮む前に資産を別市場へ移す先回り型が標準になり、コングロマリットの分割と専業化がさらに進む道。もう一つは、内製インフラの外販というAWS型の手が、AI向けの計算基盤を抱え込んだIT以外の企業からも出てくる道。そしてもう一つは、転用の筋は良くても規制や実行体制でつまずく例が増え、発表と実装のずれ自体が投資家の審査対象になる道である。どれも排他的ではなく、同時に進む可能性がある。
日本企業が参照すべきは、AWSの華やかな成功譚よりも、客と流通を残したまま店先の品だけを替えた鳩居堂の地味な手順のほうだとARBOは考える。ただし先回りには痛みが伴う。まだ黒字の事業を手放す決断は、業績が崩れてからでは下せない。
注視ポイント——今後12〜24カ月のシグナル
- GE Aerospace、GE HealthCare、GE Vernovaの三社それぞれの資本配分が、分割の正当性を数字で示せるか。各社のIR資料が判断材料になる
- 社内のコストセンターとして抱え込んでいた計算基盤を外部に売り出す企業が、IT以外の業種からも出てくるかどうか
- Kodakの医薬品原薬計画がどこまで進むか。同種の「転用発表」が、発表どまりで終わらず実装まで届く比率はどの程度か
参考文献
- Amazon.com, Inc. 2023年度年次報告書(Form 10-K)AWSセグメント売上高開示
- Nokia Corporation 携帯端末事業譲渡に関する発表(2013年9月)
- Nokia CorporationによるAlcatel-Lucent買収完了発表(2016年1月)
- Corning Incorporated Gorilla Glass製品沿革(2007年)
- Eastman Kodak Company “Kodak to Produce Pharmaceutical Ingredients in New Partnership with U.S. Government”(2020年7月28日)
- Reuters “Kodak pharmaceutical ingredients loan paused amid SEC inquiry”(2020年8月)
- Koninklijke Philips N.V. 家電事業売却に関する発表(2020年10月)
- Koninklijke Philips N.V. Signify株式売却完了に関する発表
- General Electric Company GE HealthCare上場開始に関する発表(2023年1月4日)
- General Electric Company GE Vernovaスピンオフ完了に関する発表(2024年4月2日)
- International Business Machines Corporation Red Hat買収完了発表(2019年7月)
- International Business Machines Corporation Kyndrylスピンオフ完了発表(2021年11月3日)
- Garmin Ltd. セグメント別売上高開示
- 鳩居堂の歴史(鳩居堂公式資料)
- 江戸時代の商家経営と事業転換(国立歴史民俗博物館)
- 熊谷直心と鳩居堂——近世江戸の商業革新(江戸東京博物館)