住友商事——商社を禁じた財閥は、なぜ戦後に総合商社を生んだのか

はじめに——1920年2月、住友の総理事は「商社をつくる案」を退けた

1920年2月、住友総本店の総理事・鈴木馬左也(すずき・まさや、1861–1922)は、幹部たちを呼び集めた。第一次世界大戦の好景気に乗り、住友でも商事と貿易に打って出ようという企画が立てられていた。商事会社を設立する起案文書まで用意されていた。鈴木はその案を退けた。住友には商事に練達した人材が育っていない。一歩誤れば大損害を被り、ほかの事業まで危うくする——。社史には、そう理由が記録されている。

翌3月、株式市場の暴落をきっかけに戦後恐慌が始まった。経験の浅い商事会社は次々に倒れ、住友の幹部たちは鈴木の判断に敬服したという。以来、住友では商事会社をつくる話はタブーになった。口にすることさえはばかられる空気は、それから25年続いた。

1945年10月、その禁を破る決断が下される。敗戦で行き場を失った大勢の職員を抱え、総理事の古田俊之助は、社内の激しい反対を押し切って商事部門の開設を決めた。翌1946年1月、大阪で商事活動が始まる。住友商事は、このときの顔ぶれを「わずか32名の素人集団」と振り返っている。

同じ住友が、なぜ25年を隔てて正反対の判断を下したのか。家訓で商社を封じていた財閥から、どうして総合商社が生まれたのか。

素人集団から始まった会社は、いま三菱商事・三井物産・伊藤忠商事・丸紅と並ぶ五大商社の一角にいる。鉄鋼や自動車、不動産、メディア、資源、エネルギーまで、9つの営業グループが世界で事業を営み、2026年3月期には過去最高益を記録した。伊藤忠商事は1858年の麻布の行商から、旧三井物産は1876年に「貿易」を本務として生まれた。どちらも最初から商いの会社である。住友商事は違う。商社をつくらないという判断を出発点に抱えた、後発の総合商社なのである。

1920年の却下と1945年の決断。その両方を支えたのは、住友が長く守ってきた同じ一行の家訓——「浮利を追わず」——だった。本稿は、その一行の読み方から住友商事の107年をたどる。

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